中国で学んだ人たちと触れ合い、日本の当時の政治の
やりかたに疑問を持つようになり、権勢をふるっていた
蘇我氏を倒す運動に加わります。
その中心人物は、勿論、中大兄皇子でした。19歳の
皇子を31歳の鎌足が補佐したと思われます。
そして645年6月12日、蘇我入鹿を討ち、父の
蝦夷を自害に追い込みます。
大化の改新の後、新体制を支え、亡くなるときも
百済を助けるために国が疲弊しているから葬儀は
簡略にと言い残したと伝えられます。
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2010-02-23 20:10
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